(聞き手)
東日本大震災発災前には、どのような防災対策をしていらっしゃいましたか。
(中本様)
本校では年に2回、防災
避難訓練として生徒全員を避難場所に誘導し、どのくらい時間が掛かるのか、避難状況を観察してどのような問題点があるのか、どのような点に気を付ければ良いのか話す機会を半年に1回のペースで設けています。毎年6月に地震と津波を想定した防災
避難訓練を行っており、それは震災以前から毎年行っていました。ですが大きな地震はもう何十年もなかったので、言葉が適切ではないですが、形通りに訓練を行っていたということで、それに対する真剣味がどれほどあったのかは何とも言えません。また、校内に備蓄はほとんど何もありませんでした。
(聞き手)
他の災害の
経験についてのお話をお聞かせください。
(中本様)
昭和53年の宮城県沖地震の時には仙台に居ました。今回の東日本大震災は宮城県沖地震に匹敵するか、あるいはそれを上回るであろうことは揺れた時にわかりました。役立った
経験は、どのくらいの期間が経てばライフラインが復旧するか見通しが立てられたことでした。
震災当日は
学校に居りまして、多賀城市から仙台の自宅に帰ろうと思いました。その時、宮城県沖地震の時もすぐに電車が止まり、それ以降何週間か電車が不通だったことが記憶として残っていましたので、とにかく帰りの足を確保しなければいけないと考えていました。幸い、私は
学校に原付バイクを置いていましたので、それで帰宅することが出来ました。今回のように
ガソリンが不足することは予測出来ませんでしたが、電気は比較的早く復旧するであろうことや、都市ガスは復旧に時間が掛かるだろうと予想できました。また、食糧も手に入りにくいだろうと予測できましたので、それを念頭に置いて行動することができました。
(聞き手)
宮城県沖地震の
経験が、今回の震災でも、ある程度予想として役立ったということでしょうか。
(中本様)
そうですね。私は阪神・淡路大震災の時に
ボランティアで神戸に行った事があります。向こうは津波こそ来ませんでしたが、代わりに家屋の倒壊が非常に酷い状態でした。その観点から考えると、今回は津波で大きな被害が出ましたが、地震そのものの揺れで家屋が倒壊し、下敷きになって亡くなられた方については、多くありませんでした。直下型の地震とプレート型の地震について言えば、神戸ほどの揺れはこちらにはなかったということです。
津波に関して言えば、テレビの映像でスマトラでの津波を見たことがありまして、津波が海岸線からどのくらい内陸まで連続的に入り込んで来るのかという映像を、画面を通して見ていました。本校は海岸線から比較的内陸に入った場所にあるので、一般的には「ここまでは来ないだろう。」と思われる地域でしたが、私は揺れを感じた時に「ひょっとしたらここまで来るかもしれない。」と感じました。恐らく国道45号までは来る可能性があると思ったので、自宅に帰る時は45号を経由せず、内陸側にある仙台市岩切方面から帰宅しました。同僚の中には、45号を通って帰宅された方がいらして、車の中に水が入って、車が使えなくなったのはもちろん、命からがら助かった先生も何人かいらっしゃいましたので、ある程度そういう意識を持っていたことが、自分の身を守るのに役に立ちました。
(聞き手)
今回はかなり大きな揺れでしたが、その時点で津波が発生するという予感はありましたか。
(中本様)
揺れてすぐにそう思いました。少なくとも、私がこれまで
経験してきた中で、これほどの揺れはありませんでしたし、揺れの時間が長かったので、津波が来るのではないかという脅威はありました。しかし、神戸の時に建物が倒壊している光景が頭に残っているので、とりあえず、揺れで建物が倒壊しなければいいと思っていました。2~3分の時間が経って揺れが収まってきた時に、窓ガラスにひびが入ったりはしましたが、建物は倒れておらず安心しました。次に思った事が津波ですね。ここは海岸線から比較的近い場所にあるので、津波が来るかもしれないと思っていました。
(聞き手)
赤坂先生は貞山高校に来て1年目で震災に遭ったということですが、それ以前に多賀城市との関わりはありましたか。
(赤坂様)
あまりありませんでした。私は実家が気仙沼なので、地震が起きたら津波が来るということが念頭にありました。それと、唐桑に津波記念館がありまして、そこで津波が起こったらすぐに逃げるという映像を見ていました。しかし、ここまで被害が酷くなるイメージはありませんでした。震災時の映像で、気仙沼に津波が来ている様子を見ていたのですが、多賀城市まで津波が来るというイメージには繋がりませんでした。
その後、私は
学校から外に出てみたのですが、すぐ隣にある多賀城消防署の方たちも冷静な状態で、特にサイレンを鳴らしている訳でもなく、ごく普通に国道45号を車で走っていくところを見ました。他の人たちも同じ気持ちだったと思います。しかし、途中で渋滞が始まり、前方から津波が来たとわかって非常に驚きました。
(聞き手)
揺れがかなり大きかったので、やはり津波が来ると予想していたのでしょうか。
(赤坂様)
予測はしていました。それに、映像を見て、気仙沼に津波が来ている事はわかっていました。それと同時に、自分がいる所には現時点でどこまで津波が来るのだろうと考えていました。実家のある気仙沼湾の近くに勤めていた叔父と叔母は、過去の地震で、津波がここまで来てこれだけの被害を残したという石碑を見ていたこともあり、すぐ高台に逃げたと聞きました。しかし、多賀城では、津波が起こった時の避難区域の認識だとか、津波が起きた時に国道45号は危ない箇所だという意識が全くありませんでした。ですから、それが非常に残念に思います。
(聞き手)
赤坂先生は、今回の地震以外に何か大きな災害を
経験された事はありますか。また、東日本大震災発生前の準備や対策などについて、お聞かせください。
(赤坂様)
宮城県沖地震の頃、私はまだ中
学校1 年生くらいでした。家には何日か分の水や食糧を、ある程度意識して置いていたと思います。あとは、家具の転倒防止程度をしていた程度で、中本先生のようにライフラインの復旧に関する予想をしていた訳ではありません。
電気が1週間くらい、バスは1カ月くらい止まるだろうくらいは考えていました。ですが、交通機関がこれほど酷い状態になるとは思っていませんでした。